考察

猪木と倍賞美津子の1億円結婚式!娘は猪木寛子【借金・不倫・離婚】

実は恋多きレスラーであるアントニオ猪木。事実婚を含めて4度の結婚をしていますが、2度目の結婚で女優の倍賞美津子と結婚したことは有名です。今回は猪木と倍賞美津子の恋愛事情に迫る!

猪木と倍賞美津子の馴れ初め

猪木と倍賞美津子の出会いは1986年。きっかけは、倍賞家と交流があった豊登(猪木の先輩レスラー)が二人を引き合わせました。

一目惚れしたという猪木ですが、すぐに交際には発展せず親交のあるグループの友人同士という関係でした。その後、お互いに惹かれ合い正式な交際へと発展します。

猪木曰く倍賞美津子の魅力は…

明るくて、心身共に健康なところ

とのこと。猪木の貴重な胸キュン発言!

猪木と倍賞美津子の結婚生活は波乱万丈

猪木と倍賞美津子の結婚式は1971年11月2日京王プラザホテルにて行いました。約1500人が出席した結婚式は、高さ5mのウエディングケーキや高価な引き出物など、その豪華さが話題となります。

ケーキのデカさ半端ない!

挙式費用は1億円!
※現在でいうと5億くらい?

当初この費用は当時猪木が所属する日本プロレスが負担する約束でした。しかし挙式直後、日本プロレス上層部と揉めた猪木は日本プロレスを追放に!結局、日本プロレス側から1億円の費用は支払われず、結婚直後に1億円の借金を背負うことに。この一件で落ち込んだ猪木に倍賞美津子は「あなた1人くらい私が食べさせてあげる」と励ましました。

倍賞美津子の器の広さ半端ない!

猪木は翌1972年、世田谷上野毛の自宅を道場に改装し新日本プロレスを旗揚げ!倍賞美津子も資金面での援助や、裏方の仕事を手伝うなど全面バックアップ。倍賞の尽力もあり新日本プロレスは黄金期を迎えます。

倍賞美津子は新日本プロレスの母!

1973年には東京新宿伊勢丹前で倍賞美津子と買い物中の猪木がタイガー・ジェット・シンから襲撃されるという事件が勃発。猪木は血だるまになり警察も出動しましたが、倍賞美津子は冷静に対応!

1976年に行われた猪木とモハメド・アリの「異種格闘技戦」では、米ニューヨークでの調印式に倍賞美津子も同行。アリは会場にいた倍賞美津子の美貌に衝撃を受け、さらに猪木のワイフだと知ると驚きを隠せなかったといいます。

波乱万丈ながら充実した結婚生活を送っていた二人ですが、1985年頃から夫婦関係にすれ違いが生じ始めます。猪木はアントン・ハイセルというサトウキビの搾りかすを燃料として活用する事業に失敗!数十億円という莫大な借金を抱えた猪木は、現実から逃げるように家に帰らず女遊びに翻弄。

猪木、破天荒すぎる!

一方、倍賞美津子も萩原健一とのスキャンダルが報じられ、夫婦関係は泥沼化…。1987年、倍賞美津子から切り出す形で離婚にいたりました。

一人娘は猪木寛子

猪木と倍賞美津子の間には、1974年に一人娘の猪木寛子さんが誕生しています。

猪木寛子さんは、幼い頃にミュージカル「アニー」で主人公のアニー役を務めた経験があり、その際に山尾志桜里さんと共演しています。その後は女優としての目立った活動はなく、ボストン大学へ留学することに。

そして1998年、元新日本プロレス社長のサイモン・ケリー氏と結婚にいたります。サイモン・ケリー氏とは幼少期から家族ぐるみの付き合いがあり、同じインターナショナルスクールにも通っていました。2人の子供に恵まれますが2016年前後に離婚しています。

倍賞美津子名曲『いつも一緒に』

1977年にレコード化された『炎のファイター/アントニオ猪木のテーマ INOKI BOM-BA-YE』のB面には、倍賞美津子が歌う『いつも一緒に』が収録されています。

倍賞美津子の心情を表すこの歌が泣ける!

いつも一緒に

歌:倍賞美津子
作詞:なかにし礼
作曲:マイケル・マッサー

いつも一緒なの愛があるから
男は戦いに今日もまた出かける
女はただ待つだけ
何ひとつ手につかず
おろおろしている
長すぎる一日

いつも一緒なの愛があるから

いつも一緒なの愛があるから
男は戦いの旅から帰った
女はただ甘える
もうどこにも行かないで
明日よ来ないで
幸せが眩しい

いつも一緒なの愛があるから

まとめ

闘魂の源は愛