プロレスに事故や事件はつきものですが、今回はプロレス・格闘技界の歴史を変えた事件、安生洋二によるヒクソン道場破り事件を考察します!ヒクソン道場破り事件の経緯・真相に迫る!
ヒクソン道場破り事件とは?!
UWFインターナショナルに所属していたプロレスラーの安生洋二が、1994年12月7日、ロサンゼルスのヒクソン・グレイシー柔術アカデミーへ道場破りに行き、ヒクソン・グレイシーに挑戦。非公式試合ながら多くのヒクソンの弟子たちが見守る中、なすすべなく倒されパウンドを浴び、チョークスリーパーで失神させられた事件。
ヒクソン道場破り事件 経緯・真相
当時、髙田延彦を筆頭としたUWFインターナショナルは“最強”を謳っており、グレイシー柔術がマスコミにもてはやされるのを黙って見過ごすわけにはいきませんでした。そしてヒクソンと対戦交渉を進めていたUWFインター側が、なかなか結論を出さないヒクソンを挑発するために刺客を送り込みました。
その刺客に選ばれたのが、当時道場で一番の実力者とされた安生です!
安生洋二は第一次UWFの高田延彦に憧れて、高校卒業後UWFに入門。1980年代にはUWF軍として新日本プロレスにも参戦しました。第2次UWF解散後はUWFインターナショナルに参加し、高田延彦の右腕としてリング内外で活躍!小学校4年生の頃までニュージーランドで過ごし英語が堪能な安生は、外国人レスラーのブッカーも担当。また道場での実力も本物で、後にPRIDEで活躍する桜庭和志やUFC-Jミドル級トーナメント優勝者の山本喧一などを指導。
当初は刺客と言ってもあくまでブッカーとしての交渉のはずでした。しかしヒクソン側には日本からヒットマン(道場破り)が来るという情報が伝わり、ヒクソン本気モードに!
そして1994年12月7日、安生はロサンゼルスのヒクソン・グレイシー柔術アカデミーに訪問!様々な思惑や情報が交錯し、運命の一戦が急遽実現します。
※安生は、あくまでブッカーとしての訪問のつもりで、朝方までお酒を飲んでいました。
安生洋二 vs ヒクソン・グレイシー
〜朝方まで飲でいた男 vs 殺す気の男〜
結果は安生惨敗!
パウンドで流血!
チョークスリーパーで失神!
試合はマスコミ完全シャットアウトで行われましたが、試合直後のボコボコにされた安生の衝撃写真!
安生の着ているTシャツ、カッコイイ!
安生のヒクソン道場破り事件は週刊プロレスの表紙にもなり、当時のプロレスファンは度肝を抜かれました。
ヒクソン道場破り事件の影響
安生のヒクソン道場破り事件以降、ヒクソンおよびグレイシー一族の知名度は急上昇!安生の仇そしてプロレス最強神話を守るため、UWFインターナショナルのボス髙田延彦への期待が高まります。
そしてPRIDEの第1回大会『PRIDE.1』にて髙田延彦 vs ヒクソン・グレイシーが実現!PRIDEは、もともと髙田延彦とヒクソン・グレイシーの一戦を実現させるために立ち上げられたイベントだったのです!
髙田延彦 vs ヒクソン・グレイシーのきっかけを作った安生のヒクソン道場破りは、まさにPRIDEの原点!安生のこの行動がなければ、PRIDEは存在していなかったでしょう。
つまり日本の総合格闘技界を底上げしたのはプロレスラー安生洋二!
まとめ
安生が串焼きを焼いてくれる串焼き店「市屋苑」に行くしかない!
人気レスラーだった安生洋二さんは串焼き店で“300%”奮闘中
串焼 市屋苑
※お店のオーナーはUWFインターナショナルで取締役をしていた鈴木健氏