名勝負

【昭和の巌流島】力道山vs木村政彦 伝説のセメントマッチ経緯を考察!【ガチンコ】

プロレスの試合において、ガチンコな不穏試合はセメントマッチと呼ばれています。今回は日本のプロレス界における伝説のセメントマッチ『昭和の巌流島』こと力道山vs木村政彦の経緯を考察!

力道山とは

力道山は日本のプロレス界の礎を築いた最大の功労者。あのジャイアント馬場、アントニオ猪木の師匠であることでも有名です。

力士からプロレスに転向した力道山は、戦後テレビ放送が始まったことに追い風を受け、国民的大スターに!


出典:Wikipedia

小さい街頭テレビに1万人以上が集まり力道山に熱狂!
※当時は小さい白黒テレビ
…実は前から5列目くらいまでの人しか見えていないのでは?

全国民が熱狂する力道山ブームとなりましたが、1963年暴力団とのトラブルで腹部を刺されたことが原因で死去。39歳という短い生涯を終えることになります。

木村政彦とは

全日本選手権13年連続保持、天覧試合優勝も含め、15年間不敗のまま引退。

「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」と讃えられ、後々にも史上最強の柔道家と称されています!

あのヒクソンやホイスの父である柔術家エリオ・グレイシーと伝説の死闘も!

この試合は、総合格闘技の原点とも言える試合!

エリオ・グレイシー曰く…
木村のヘッドロックが強すぎて私の耳から血が出ると彼は腕を緩めて大丈夫かと聞いた
とのこと。

しかし木村は戦後の食べていけない時代にプロレスラーに転向するもプロレスに上手く適応できず迷走。そして戦後の柔道界は木村の存在そのものを柔道史から抹殺!実力は本物ながら柔道・プロレスマニア以外にその名を知る者は少なくなってしまいます。

力道山vs木村政彦 試合経緯

当時、アメリカのシャープ兄弟を招聘しての興行が人気になりました。この興行でシャープ兄弟組と戦う時の力道山のタッグパートナーとして選ばれたのが木村政彦でした。しかし、木村はいつも負け役をやらされ、その木村を力道山が空手チョップで救いだし、相手レスラーを倒すという一連の展開に鬱憤が溜まっていました。

そして木村は朝日新聞記者に対し「力道山のプロレスはジェスチャーの多いショーだ。真剣勝負なら負けない」とコメントし力道山に挑戦を表明!この一連の流れが「昭和の巌流島」と呼ばれる力道山 vs 木村政彦に繋がります。

力道山vs木村政彦 伝説のセメントマッチ

1954年12月22日に蔵前国技館で行われた「昭和の巌流島」と呼ばれたこの試合、試合直前の関係者の調整で、試合は引き分けにもっていくということで両者共に了解していた普通のプロレス試合のはずでした。

しかし試合後半に急展開が!木村の慣れない蹴りが力道山の金的に直撃!この不本意な急所蹴りに力道山の怒りが爆発!セメントマッチの流れに!

木村の蹴りが力道山の金的に当たった問題のシーン(10:32〜)から完全に力道山にスイッチが入り、プロレスの枠を超え木村をボコボコに!

力道山無双発動!
ストレートパンチ!
張り手乱れ打ち!
顔面蹴り!

いわゆるブック破りというやつです。さすがの木村もノックダウン!倒れた木村は大量の血を吐き、マットには大きな血だまりができました。

注目すべき点は…
木村政彦が一切やり返さなかったこと!

力道山vs木村政彦 影響

いまだにこの試合はプロレス史最大の謎とされており、多くの小説家やノンフィクション作家、漫画家たちがこの試合を物語の核として作品を書いています。近年では、ノンフィクションを謳う増田俊也著の 『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』が主に木村視点での綿密な取材を行い、ヒットしたことで話題となりました。

まとめ

プロレスも人生も信頼関係が大事!